収蔵作品
黒部市美術館では以下の収蔵方針にしたがって版画作品と地域の作家やゆかりの作品を収集しています。
収蔵方針
1)郷土作家またはゆかりの作家の作品の収集
2)日本国内における現代版画の流れをたどる作品の収集
黒部市美術館収蔵品作品リスト[PDF]
主な収蔵作家
(準備ができ次第、随時追加更新いたします。)
鷹田其石 たかたきせき 1871-1946年 黒部市生地生まれ
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明治4年(1871年)下新川郡生地町(現黒部市生地)に生まれました。幼少の頃より絵を好み、明治22年(1889年)東京美術学校入学、岡倉天心、フィノロサ、橋本雅邦、川端玉章に師事します。明治27年(1894年)同校研究科卒業。その後、山梨や栃木の中学校にて教鞭を執ります。明治33年(1900年)からは画家として画業に専念し、昭和21年(1946年)に没するまで、多くの作品を残しました。インドやペルシャ、中国の古画を研究し、特に東洋思想に裏打ちされる「雅観主義」(あらゆるものの中に深く存在する真理「雅」の精神を己の人格「心眼」を通して深く観ること)を主張した独自の画風を切り開きました。墨画や色彩画により、山水画、風景画、仏画を多く描き、生涯にわたり確固たる信念と画論を持ち制作活動を続けた画家です。
富山芳男 とみやまよしお 1910-2000年 黒部市生地生まれ
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1928年鹿子木孟郎のアカデミーで素描を学んだ後、1931年に画家を志願し上京し、太平洋美術学校に学びます。文展、日展に出品しましたが戦火により戦前の作品はすべて焼失しています。戦後は中沢弘光が創設した白日会会員となりました。 富山は、風景、人物、静物を描くことを通して「存在」を追求しました。作家にとって、自然の「存在」と「生命」の実相を消捨しながら「神」の把握に向かう、それこそが芸術であったといいます。そして、一つの作品を4年も5年もかけ、納得がゆくまで描きこみ、中には展覧会の壁に掛けられないほどの重量になった作品もあったそうです。富山は「私の絵に見られる質と量はその内面経験の重量である」と説明しています。 初期の作品は、病気がちに暮らす妻の様子を描いた具象絵画でした。対象を観察するほどに、具象では表現することのできない何かの存在について苦悩しつつ、1960年に「存在についての習作」を白日会に発表しました。人物というモチーフから解き放たれて、翌年には植物の連作、1960年代後半からは壷の連作、1970年代からは胸像の連作もスタートしました。1971年には、埼玉県飯能市にアトリエを建てそこから見える「糸引山」を観察しては晩年に至るまで度々描きました。このように、あくまで身の回りの風景から具体的なものを観察あるいは認識しつつ、そこに実在する「不変なるもの」を抽出して捉えようとしてきました。 黒部市美術館は「存在についての習作」という作品群を含む多数を収蔵しています。
毛利武士郎 もうりぶしろう 1923-2004年 東京都生まれ
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父は彫刻家の毛利教武、長男は日本画家の武彦、三男は建築家の武信です。そのような環境で育った次男の武士郎もまた、1943年東京美術学校彫刻科を卒業しました。太平洋戦争を経たのち制作を再開し、1954年「第6回読売アンデパンダン」展に《シーラカンス》を出品し、新しい彫刻の方向を示唆する作家として注目を浴びます。初期の重厚感がある塑造作品から、コンピューター制御の工作機械でステンレス等の直方体に精微な幾何学模様を彫り込んだ晩年の作品まで作品形態は様々です。 1964年頃から新作の発表をすることから距離をとりましたが、約20年後の1983年富山県立近代美術館で開催された「現代日本美術の展望-立体造形」展で《哭Mr.阿の誕生》を発表し、また1999年には同館で大規模な個展を開催しました。 その中で、作家は1992年からの晩年の約12年間、黒部市にアトリエと自宅を構え制作活動に没頭しました。彼に移住の契機をもたらしたのは、前述の1983年の展覧会で毛利を担当した黒部市出身の学芸員 柳原正樹でした。そして柳原は、毛利没後には「若い人々にアトリエを使ってほしい」という作家の意思を継いで、シーラカンス 毛利武士郎記念館として運営してきました。そこは今でも、地域の芸術活動を支える重要な拠点となっています。
伊年印四季草花図屏風 いねいんしきそうかずびょうぶ
市指定有形文化財
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四季折々の草花を中心に桜の樹木やトウモロコシやナスなどの野菜を描いたもので35種の植物が描かれています。野山に自生するものや観賞用の栽培種、水辺の植物などが並列的に配置されています。豊かな草花の風景のようで、実は時間や場所が異なるものが画面上で再構成されています。 江戸時代初期に流行しはじめた本草学(植物学)の影響もあり様々な植物を鑑賞しながら四季のめぐりを感じられる趣向でした。同じころ、私的な室内装飾を必要とする層の拡大により町絵師の台頭と繁栄もありました。それら二つの要因が重なり、好評を得たジャンルとして需要があったようです。それは、四季草花図屏風が他にも多く伝世していることからも推測できます。 この屏風は、俵屋工房を受け継いだ喜多川相説の周辺の絵師あるいは、それ以降に描かれたものと考えられています。 ― 「伊年」印について 屏風の左右に捺された「伊年」という落款は江戸時代前期に活躍した俵屋宗達が主宰する俵屋工房の商標的なものです。この印は、工房に所属する複数の絵師により使用されていたようです。後に俵屋工房は、俵屋宗雪、喜多川相説へ継承されたと考えられています。