富山芳男 とみやまよしお 1910-2000年 黒部市生地生まれ
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31年に画家を志願し上京し、太平洋美術学校に学びます。文展、日展に出品しましたが戦火により戦前の作品はすべて焼失しています。戦後は中沢弘光が創設した白日会会員となりました。 富山は、風景、人物、静物を描くことを通して「存在」を追求しました。作家にとって、自然の「存在」と「生命」の実相を消捨しながら「神」の把握に向かう、それこそが芸術であったといいます。そして、一つの作品を4年も5年もかけ、納得がゆくまで描きこみ、中には展覧会の壁に掛けられないほどの重量になった作品もあったそうです。富山は「私の絵に見られる質と量はその内面経験の重量である」と説明しています。 初期の作品は、病気がちに暮らす妻の様子を描いた具象絵画でした。対象を観察するほどに、具象では表現することのできない何かの存在について苦悩しつつ、1960年に「存在についての習作」を白日会に発表しました。人物というモチーフから解き放たれて、翌年には植物の連作、1960年代後半からは壷の連作、1970年代からは胸像の連作もスタートしました。1971年には、埼玉県飯能市にアトリエを建てそこから見える「糸引山」を観察しては晩年に至るまで度々描きました。このように、あくまで身の回りの風景から具体的なものを観察あるいは認識しつつ、そこに実在する「不変なるもの」を抽出して捉えようとしてきました。 黒部市美術館は「存在についての習作」という作品群をふくむ多数を収蔵しています。